カトリック神戸中央教会
Kobe Central
catholic church
赤波江 豊神父
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「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、イエスを試そうとして議論を吹きかけます。
「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:5)
このときのイエスノ態度が不可解です。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(8:6)
なぜすぐ議論に応じなかったのでしょうか。なぜかがみ込んだのでしょうか。実は、このかがみ込むという態度に、イエスの深い思いやりが感じられるのです。
この女性は恥ずかしさと、殺されるという恐怖に怯え、顔は青ざめ、うつむいていたことでしょう。
もしイエスが律法学者たちとすぐ議論すればこの女性の顔を見ることになります。
そうなると、この女性にますます恥ずかしい思いをさせることになります。イエスのかがみ込む姿勢は、自分も顔を伏せることで、この女性に恥ずかしい思いをさせないという、イエスの深い思いやりを示しているのです。
「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(8:7)
イエスは人々に向かって言われましたが、まだ女性の顔は見ていません。その証拠にイエスは再びかがみ込みます。
イエスの言葉に対して、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、ついに誰もいなくなります。
そのとき、「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。』」(8:10)
二人きりになったとき、ついにイエスは身を起こして、女性の顔を初めて見たのです。
そして女性も初めて口を開きました。しかも、わずか一言、『主よ、だれも』。
彼女には、これ以上の言葉を言う力はなかったのでした。しかし同時に、このわずか一言の中に、死の恐怖から解放された女性の安堵感が漂っています。
実は、私はこのイエスの背後に養父ヨセフに姿が見え隠れするのです。
マタイ福音書によると、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:18~19)
ヨセフが当時の「律法で言う正しい人」であったのなら結婚前に身ごもっていたマリアを告訴したはずです。
しかしヨセフはマリアに恥ずかしい思いをさせたくなかった。
しかし、その後ヨセフは夢に現れた主の天使の命令に従って、マリアを妻として迎え入れました。
「ヨセフの正しさ」とは、律法上の正しさではなく、人間の掟を越えて神の掟を守ること、神の掟とは、弱い立場の人を守り抜くことで、ヨセフの後姿を見て育ったイエスは「正しい人」を貫いた結果、十字架の死を受け入れることになったのでした。
イエスはこの女性の過去は一切問わず、最後にこの女性に対して、そしてわたしたち一人一人に対しても、『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』そう語りかけています。
イエスはわたしたちの罪深い過去は一切問わない。出会ったときが恵みのときだから。
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